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2016年4月10日 (日)

『庭師の娘』

Photo 『庭師の娘』
の読書会記録

ジークリート・ラウベ著 若松宣子訳 

岩波書店 2013

原題:Marie mit dem Kopf voller Blumen by Sigrid Laube, 2007




夏子:この作品は、作中に登場するメスメル博士に興味を持っていたので、ぜひ読みたいと思って選びました。メスメル博士は、英語のmesmerize(催眠術をかける、魅了するという意味)の語源となった人物です。1768年にウィーンで10歳上の裕福な女性と結婚。お金持ちになったので、モーツアルトを初めとする芸術家たちのパトロンとなりました。「動物磁気」という概念と治療で知られていた医者です。今で言うと、「気」で直すという感じで、手かざしで治療したのね。当時の学会で否定されてしまったため、彼の晩年については何もわからないんです。ちょっと怪しい人物ではあるのですが、非常に興味深いですよね。作品のなかでどんな風に料理されるのか期待して読んだんですが、おもしろくも何ともない人物像に描かれていますね。メスメル博士も凡庸だし、せっかく登場するモーツァルト少年も、いきいきと迫ってこない。脇役に魅力がありません。主人公も、この子がなぜ庭師になりたいのか、という肝心なところにリアリティがありません。幾何学的なフランス式の庭園から、(自然な感じがする)イギリス式庭園へと流れが変わる、それを主人公は先取りするわけなので、この子はモーツアルトに匹敵する天才なんだわね。そこがうまく描かれているとはいえず、残念ながら力のある作品とは思えなかった。翻訳もちょっと硬い感じでした。

レジーナ:「主人公がなぜ、庭を好きなのかが描かれていない」というお話がありましたが、マリーは造園に関して、天才的な素質を持った少女なので、私はその点は気になりませんでした。マリーは夢見がちで、庭のことでいつも頭がいっぱいです。この物語では、マリーとモーツァルトという、ふたりの天才の姿が捉えられています。それぞれ豊かな才能を与えられていますが、周囲の環境は必ずしも、それを発揮できる場ではありません。モーツァルトは、周りの大人に実力を疑われたり、妬まれたりします。一方マリーは、父親が庭師ですが、女性のマリーは仕事を自由に選べません。ヤーコプとの恋はうまくいきすぎる気がしました。この時代、マリーが庭の仕事をするには、結婚するしかないので、仕方ないのかもしれませんが……。庭の描写は、「こんな庭を見てみたい」と読者に思わせるように、もっといきいきと描いてほしかったです。マリーが造ろうとしているのは、イギリス式庭園です。この時代、啓蒙主義という新しい考え方が入ってきて、博士のような先進的な人物を通じて、人々に広まっていく。人や社会の考え方が変わり、新しい時代になっていく。それが、このイギリス式庭園に象徴されています。ジャガイモやトマトがヨーロッパにもたらされ、食卓に上るようになるところや、ウィーンの町の描写も興味深く感じました。原書の表紙にはピンクと紫の花が描かれ、ポップな印象ですが、日本語版の装画には味わいがあり、より作品の雰囲気に合っています。

レン:ちょっと読みにくかったです。冒頭で、修道院で看護の仕事をするのではなく、庭師になりたいというのはわかりましたが、その後、造園に打ち込む描写は少なくて。修道院で薬草の世話をさせてもれえることになったとき、私はよかったなと思ってしまったんですね。そしたら、そうじゃなかった。火をたいて花を守る場面はおもしろかったけれど、結局好きな人と結ばれてハッピーエンドかって。後書きを読んではじめて、職業や結婚相手を選ぶのにも自由のない時代だから意味のあることだったのだとわかりましたが、ただお話を読んだだけだと、それが伝わらないかな。それに、人物のイメージがつかみにくい気がしました。せりふから、こういう人かと読んでいたら、次のせりふでは印象が違って。特にブルジがそうで、どういう立ち位置の人かがつかめず、落ち着きませんでした。

ひら:「好きなこと(仕事)をあきらめなくていいんだよ、そのうちうまくいくからさ」という物語で、教訓的なトーンが強くリアリティがなくて感情的に入り込めなかった。逆に言えば、よくある「主人公が、環境的なハンデを克服しようと努力し、成功した」というハッピーエンドストーリーでもないんですね。作者もあとがきで書いているように、「親の言う相手と結婚して、女性として決められた仕事をするのが普通(つまり倫理的)だった時代」において、「当時としては異端の価値観をがんばって持ち続けた」ということがテーマなんでしょうね(ある意味それだけではあるが・・・)。また「好きな仕事をする」という当時としては異端の価値観が、なぜ児童文学として成り立っているかというと、現代では一般的に流布していて、安心して親や教師が子供に伝えられる価値観だからでしょう。例えば同じ手法を転用すれば、人種差別について「昔は皮膚の色で仕事や結婚も決まっていたんだけど、そんな時でも、皮膚の色でなくその人の能力や性格で物事を色々と判断した人がいたんだよ」という美談を若干の事実も踏まえて50年後に児童文学として書くこともできる。文学と倫理の関係で考えると、例えば同性愛は今の時点で倫理的に広く受け入れられている価値観ですが、まだ児童文学としてはこなれていない価値観ですよね(逆に純文学が扱うテーマとしては少し弱すぎるかも。例えば「自殺」を「尊厳死」として肯定する価値観は十分に異端なので純文学として切り立つ可能性があるのでは)。

ゴルトムント:ドイツ語の作品ですが、筆者のアイデンティティは、オーストリア人でウィーンの人。推測ですが、モーツァルトは、本人の実態に近く描かれているのでは。天才ですからね。息をするようにメロディーが出てくる。楽譜に書くのが追いつかない。

レン:モーツァルトは12歳というわりに幼く感じました。私は、なぜモーツァルトを登場させないといけなかったのか疑問でした。時代性を伝えられますが、あれだけの天才のモーツァルトがひきあいに出されると、マリーのことも「結局、ものをいうのは才能」と読めてしまい、そうなると、平凡な読者は親しみを持ちにくいなと。

ゴルトムント:小説というのは描写が命。だけど今は、描写が細かいと読者はなかなかついていけないでしょう。例えば植物の具体的な名前がいっぱい出てくるけど、知らないと読者は飽きてしまいます。マリア・テレジア、モーツァルト、実在の人物をやはりうまく配しています。オペラのコシファントゥッテに博士が出てくるそうで、もう一度聴き直さなくては。主人公の女の子は、時代に負けずに自分の人生を歩もう、というテーマでしょうね。

アンヌ:何か、とても不器用な感じのする物語でした。前半の修道院生活に対する嫌悪感にはとてもリアリティがあるのですが、ウィーンの街の様子、モーツァルトの使い方、メスメル博士の言葉の中に現れる啓蒙思想やブルーストッキングなどの新思想などが、なんだか取ってつけたようで、それぞれについては、描いているけれど、物語の中で活きていない感がずっと最後までしました。ヤーコブとの恋も、一昔前の少女小説じみていて、もう一つ効果を発していない気がします。マリーの心の中が、夢みがちな少女という設定なので、はっきり描かれていないからなのかもしれません。マリーは、庭をスケッチし縮尺を使って設計図を描くことができたり、霜を防ぐ方法を考え出したりすることができる女の子には、到底見えません。もっと自然そのものへの愛着を示す場面などがあれば、いきなり彼女がイギリス式庭園を作り上げられるだけの考えを持っていることに納得がいくのにと思いました。何もかもメスメル博士が言い換えて説明し直して話が進んでいくという感じで、マリーの中にもうまく入り込めないまま、どんどん物語が展開していきました。メスメル博士は、もっと魔法使いのような人間に描かれてもおもしろい人なのに、市民階級のパトロンという役割ではもったいない気がしました。なんだか物語を回していく役割だけなのが残念でした。せっかくモーツアルトが登場するのに、マリーはモーツアルトへの反感を抱くばかりなのも奇妙な感じがしました。もっと、活き活きとお互いの人格を感じ合える場面があればよかったのにと、思いました。

ルパン:可もなく不可もなく、という印象をもってしまいました。メスメル博士は、皆さんのお話を聞いていると、どうやら本物のほうがおもしろそうですね。描かれた人物がみんな平坦で…。いちばん期待してしまったのはプレッツェル売りです。でも、「この人、何者!?」って思わせておいて、結局何者でもなかった。

アンヌ:このあたりから、モーツアルトがもっと活躍してくれるのかと思ったのですが、そうではなくて、がっかりしました。

ルパン:気になったのは194ページのところです。寒いから火をたいて植物を温める、っていう発想は、「へえ」って思いましたが、火を燃やしたまま、草花を見守るでもなく、主人公もほかのみんなも家に入っちゃうんですよね。火事になるんじゃないかと心配しちゃいました。しかも、あとで見に行くのはマリーでなく、ほかの人。これでは庭園への愛も感じられず、クライマックスという気もしないまま終わってしまいました。それに、伯爵夫人の依頼はどうなったんでしょうね。結婚によって修道院に入らなくて済んだ、という結末は、マリーの夢とうまくリンクしていなくて、ひどくちぐはぐな印象でした。父親も、マリーの才能を認めているのかいないのかはっきりしないし。

ゴルトムント:父親は、女は庭師になどしないという古い価値観の持ち主。啓蒙専制君主のマリア・テレジア。ウィーンのシェーンブルン宮殿はベルサイユそっくりに作っているわけで、18世紀にはフランス的なものに高い価値を置いた時代だったのでしょう。その当時の空気をベースに書いているんですね。

ルパン:「その当時の空気」がきちんと描けてないから、よけいわかりにくいですよね。でも、本質的な問題は、そこではなくて、ストーリー展開にあるのだと思います。主人公に魅力があって、物語がおもしろければ、多少歴史的背景がわかりづらくても、子どもは気にしないですから。ファンタジーやSFみたいに、ありえないような設定であっても楽しめるものはたくさんあるわけだし。

夏子:庭というと、『秘密の花園』のイメージが強烈よね。『秘密の花園』では、主人公のメアリーの内面と庭が強く結びついているでしょ? ところがこの本では、読み進んでも、主人公と庭とがうまく結びついてこない。主人公の自立心や個性が感じられないために、魅力がないのだと思う。現代の読者が読むのだから、当時の時代背景は今とは違うとはいえ、読者が主人公に共感できるところがないと、読めないなぁ。

マリンゴ:何かがうまくいかないと日常で悩んでいる子どもが読めば、もっと“ままならない”時代もあったのだと感じ、自分も頑張ろうと思えるかも。ただ個人的には、マリーが天才すぎることに共感できませんでした。天才だからマリーは救済されたのか、そうでなければ修道院行きだったのか、とイマイチ感が残ります。ごく特例を描いた物語のような気がしています。

ハリネズミ:原題は、Marie mit dem Kopf voller Blumenですから、頭の中が花でいっぱいになっているマリー、というような意味だと思いますが、マリーの花に対する愛が、そんなに描かれていないし、しょっちゅう花のことばかり考えていました、という描写がもっともっと出てきてもいいんじゃないかと思いました。現状では、介護よりはガーデニングが好きだと思っているうちに、自分の努力ではなく運がよくて「足長おじさん」のような人が現れて憧れの仕事につけた、というふうに思えてしまいます。メスメル博士も癖があっておもしろそうな人物なのに、この作品では単なる好々爺になっていますね。ひらさんが児童文学はその時代の倫理観に左右されるとおっしゃっていましたが、私はあまりそうは思っていません。それよりも、どんな世界になったらいいかと考えて書いているのが児童文学なのではないでしょうか。

ひら:「米国人を殺すのは正しい」という価値観は現代では異端ですが、戦時では流布するべき価値観として成り立っていて、児童文学として成立できたと思います。逆に現代の日本において「米国人を殺すのは正しい」という価値観の児童文学を書く(売る)のは難しいのではないでしょうか。

ハリネズミ:戦時中は多くの児童文学作家も、お上の政策に協力してしまいましたね。ただ児童文学なるものが目指すものがあるとすれば、それは「お上に迎合して売れればいい」というのではなく、もっと本質的なものなんじゃないかと思いますが。

ひら:児童文学の主な消費者は親や図書館であり、ユーザーが子どもであるケースが多いと思っています。その際、例外はもちろんありますが、基本的に親や公共機関は保守的な価値観(言い換えればラジカルでない価値観)を再生産する本を購入、勧めることが多いと思います。

ハリネズミ:今の価値観を肯定してそれにのっとって書く人もいますが、一つの理想の姿を意識したうえで書く作家もいますよね。現状肯定してしまうと、未来には向かいませんからね。

レン:児童文学は、さまざまな考えの間の揺らぎも伝えているのでは?

 

夏子:児童文学は、既成の価値観を無力化するためにあるのでは?

(2015年7月の言いたい放題)

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