国際協力についての2冊の本を読んで
ただ今書いている途中の戦争と平和の児童書のブックガイドですが、今日は『地雷の村で「寺子屋」づくり』(PHP)という本について原稿を書いていました。この本のサブタイトルは、「カンボジアひとりNGO栗本英世の挑戦」。著者の今関信子さんがカンボジアに栗本さんを訪ねて、その活動について書いている本です。
アジアについてはあまりご存知なさそうな今関さんが、栗本さんについて歩き、いろいろと知っていくという内容です。本作りという点では記述に不確かなところもあるし(たとえばこの本を読んだ人は、マラリアにかからないためには予防接種が必要だと思ってしまうでしょう)、流れがうまくつけられていないと感じる部分もあり、少し残念な仕上がりです。でも、この本を取り上げようと思った理由は二つあります。
一つは、とても素直な方らしい今関さんが、何も知らないでぼっとカンボジアに行ってしまって、おたおたしたり、感動したり、反発したり、自分の言動を反省したりするところ。たぶん日本の子どもも、同じように心を動かすのではないかと思ったのです。
もう一つは、栗本さんの活動が、普通の私たちが考える支援とは違うところ。例えば今関さんが荷物をもたせてくれ、と寄ってくる子どもたちに、5円くらいなんだからちょっと小さな荷物をもたせてやろうとすると、栗本さんは、 「恵むようなことをしてはだめです」と、ぴしゃっと言います。安っぽい同情心を許さない。そして、こう話すのです。自分が知っている物乞いのある少年は、大人の物乞いの5倍くらい稼ぐのだが、それはやせ細って死にそうに見えるからだということ、そしてその子の義理の母はそれがわかっていて、その子に食事をさせなくなったということを。彼は、その義理の母を責めているのではなく、私たちが後先を考えずに、「金や物」をめぐんで自己満足してしまうことを責めているのです。
栗本さんが「金」「物」は魔物だと思っていることは、この本の端々にもあらわれています。たとえばこんな箇所もあります。
「オワンちゃんたちが、どんなに困っていても、どの家より困っているとわかっていても、ここに食べ物や品物を持ってきてはならない。特別あつかいはできないのだ。どの家も苦しい。ぎりぎりのところで、ふみとどまっているからだ。
たとえ善意であっても、物を持ち込めば、それで波風がたつ。物なんて、ただの物だ。それ自体、なんの力もない。だが、物は、人の手にふれると、そこから思いがけない動きをつくる。物とは、そういうものだ。
オワンちゃんたちが、いやがらせをうけないとも限らないだろう。なぜ、オワンちゃんの家だけに物が届くのか、不信感も生まれるだろう。人の心に疑いの芽が目ばえたら、思いはまっすぐ届かなくなるのだ」(p126−7)
その原則に従うと、当然のことながら辛いこともたくさん出てきます。たとえばある日、栗本さんの事務所に親子(父、母、子ども4人)がたずねてきます。土地を借りて農業をしていたけれど、不作で土地の借り賃が払えなくなり、払うには娘を売るしかなくなっていると、その人たちは言います。つまり、自分たちよりお金を持っていそうで、カンボジア人の役に立とうという気持ちを持っている栗本さんに泣きついたのです。栗本さんにも窮状は痛いほどわかりました。でも、栗本さんは断るしかなかったのです。こう言って。
「ぼくは、長い内戦で、親を失ってしまったこどもたちに、安心して暮らせる場をつうりました。クラッチェに家を買いました。そこで、子どもたちを世話してくれる大人と、行き場を失って、困っていた子どもたちの、共同生活がはじまっています。“カンボジアこどもの家”です。ぼくは、親がいる子どもたちまでは、支援できません」と。(p127)
お父さんもお母さんも手を合わせてから帰って行ったそうです。でも、一緒に来ていた女の子は確実に売られていくしかなかったと思うと、栗本さんは、その夜は辛すぎて眠れなかったそうです。
こんな時、お金がちょっとでもあれば、渡してしまう方がどんなに簡単か。その人たちのことだけを考えれば、だれだってついつい渡してしまいたくなるでしょう。渡さないほうがずっと辛いのだから。でも、現地の社会全体のことを考えれば、渡せない。栗本さんのところに、辛いことが次から次へと押し寄せてくるのは目に見えています。そういう現実と向き合って、少しずつ道を探していくしかないのだと思います。強い人でないと、なかなかできないことです。
だから栗本さんは悩んでいます。
「ぼくは砂山を登っている気がする時があるんです。自分では、全力をかたむけて登っているんだけれど、足元からくずれておちるんだ。ぼくには、砂山をつくりかえられない。どうすればいいのだろう」(p130)
私は、栗本さんのことがもっと知りたくなって、もう品切れになっていて図書館にも入っていない本をアマゾン中古本で買いました。『慈悲魔〜カンボジア支援活動で見えてきたこと』(栗本英世著 リーブル 2008)という100ページもない本です。
「慈悲魔」とは聞いたことがない言葉ですが、栗本さんがインドに帰化した日本の女性から聞いた言葉で、その女性は、インドの街で物乞いをする人たちの中には、せっかく誕生した子どもが餓死することを恐れ、生まれたばかりの子どもの手足を切ったり、目を傷つけたりする親もいると語ったそうです。子どもが障碍者になれば、人々の哀れみをいただいて生きていけるからだとのこと。つまり「親が心を鬼にして子どもの命を守ろうとする行為」を「慈悲魔」と呼ぶとその方は言ったそうです。栗本さんは善意の人の慈悲の心が生み出す魔物、つまりこの本の表紙にも書いてあるように「良かれと思い行う援助が相手の人々を苦しめる」ことをそう呼んでいるようです。
そして、こちらの本では、栗本さんはこう書きます。
「カンボジアの人たちは、人々の優しさ、慈悲に狂喜し、自分たちではなにもしなくなっていき、すべての国策事業を海外援助に任せるようになってきました。援助者は自分たちの考える幸せや、よいと思えることをしているに過ぎません。相手の文化や宗教も無視し、自分たちが得た価値観を押し付けてきます。また、物資が豊富になることを、幸せになることと思っている人たちによって、多くの物が持ち込まれます。」(p12)
そしてこの本には、日本のNGOの失敗例(本人たちは成功したと思っているけれど、栗本さんから見れば、なんてひどいことをするのだろうと思うような例)がたくさん挙げられていました。
私たちのアフリカ子どもの本プロジェクトの会員に、コンゴ民主共和国から来たトコさんというジャーナリストがいます。彼は、いつも「金や物をめぐむな」と言っています。「コンゴにはどれだけたくさんの資金や物質が国際援助団体からつぎこまれてきたことか。それで、何が変わったのか? それをちゃんと見てから、やれることをやれ」と。(トコさんは控えめな人なので、もっと穏やかな言い方ですが)
マラソンの高橋尚子さんによる「スマイルアフリカプロジェクト」というのが、かつてありました。ウェブサイトによれば、こういう主旨です。:「子どもたちに笑顔のシューズを贈ろう」を合言葉に、子どもたちのサイズが合わなくなったシューズを「回収」し、裸足や裸足に近い状態での生活を余儀なくされている途上国の子どもたちにシューズを「寄贈」するプロジェクトです。
一見すると美しい善意の行為に思えます。感動して、シューズを寄贈した人たちも大勢いたと思います。一時は生協でも賛同キャンペーンをやっていました。でも、トコさんはこれにも反対でした。「スポーツシューズをはくのに慣れたら、次も同じようなのがほしくなる。でも、アディダスやナイキのシューズはいくらすると思いますか? ゴミの山が出来るしね」と。私もそこは、よくわかりました。アフリカには使われなくなったゴムタイヤでサンダルを作る人がいます。小さいけれど靴を作る工場もあります。その人たちの仕事も奪うことになると思いました。
栗本さんも同じようなことを書いています。
「靴は欲しいですか? と訊ねれば、全員から拍手で歓迎され、欲しいという答えが返ってくるでしょう。でも、足の大きさはさまざま、好みの色も分からないので全員を市場に連れて行き、それぞれが好みに合った色、形を見つけ、大喜びとなります。でも、数か月の月日が過ぎていくころ、〈慈悲魔〉が起こります。
カンボジアの子どもたちは、ほとんど裸足で走り回っています。石を踏んでも、木の切り株に乗っても痛くありません。その子どもたちの足の裏は厚い皮膚に覆われていますが、靴を提供すれば、靴をはいて毎日過ごすうちに足の裏の皮が薄くなり、石や切り株を踏めば足を痛めてしまいます。継続的に靴を買うお金があればよいのですが、買うことができないと、『新しい靴が欲しいな!』と、ないものねだりの心が起きてきます。〈慈悲魔〉・・・。
靴をはいたことがない子どもたちは、靴がないことで悲しい思いはしませんが、靴をはきなれてくると靴がないことが悲しいこととなります。子どもたちに喜んでもらいたいと願い行う援助が、子どもたちを苦しめてしまいます。」(p48 私も編集者なので、文章のつながりがおかしいところは、少し変えました)
栗本さんが、それだけカンボジアの人たちのことを考えて活動してきても、ある日、カンボジアの新聞に「孤児たちをレイプした」という捏造記事が載ります。冤罪事件ですが、栗本さんは自分の活動にも間違った部分があったとして、こう述べます。
「国民一人当たりの年間収入が200ドル前後で生活している人たちから見れば、私たちの活動は、鼻持ちならない金持ちの活動に見えたのでしょう。事件が起きた背景に、うらやむ心「嫉妬心」が起こり、どんなに役に立つ活動を続けていても、妬みの心を持つ人たちには迷惑で、私たちがいなくなるのがよいと思っているのでしょう」(p57)
栗本さんのような人でも、そういうことが起こるのです。たとえば、お金を無心に来た人が断られて逆恨みをする場合だって考えられなくはない。お金を持っている国の人が、お金をもっていない国の人と本当の意味で友達になるのは、それほど難しいことなのだと思います。
この二つの本には、「カンボジア子どもの家」という栗本さんの活動のウェブサイトが載っていました。でも見ると、2013年以来更新されていませんでした。『慈悲魔』という本には、栗本さんは脳腫瘍を患っていると書かれていました。もう今は活動のできない状態になっておられるのかと、心配です。
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